昨日老化しました。報告書は相変わらず微妙な進捗です。
直接発電所跡地内に入るわけでなく、この写真の1本左側の並びの手前から2番目右側の炭住の一角に清水沢プロジェクトの事務所があるのでそこで説明を受けてからになる。間違えて東亜建材の事務所に直接向かったためギリギリの時間になった。
諸注意や支払いを済ませてからガイドさんの車で先導されて再び敷地内へ向かった。
日立製の天井クレーン。火力発電所の操業は大正15年だが前年のうちに搬入されたため14年製となっている。荷重は25トン。この施設は頻繁に増築が繰り返され、昭和になってから増築された建物入り口側(間口の広いほう)は鉄筋コンクリート造であるのに対し、当初からの部分は工期短縮のためレンガの上からコンクリートを塗ってあるほか、屋根の構造の違いといった特徴もある。また、当時はレンガ造は一般的でコンクリ造のほうが贅沢に見えたという側面もあるようだ。主にボイラーの点検に使われていたようである。
計器室。発電所閉鎖後、2列あった計器を1列に移動させた際に一部が損傷したと説明を受けた。一部は処分したものの所有者の厚意によって残されている。
大理石が絶縁物である特性を生かし配電盤の表面にも使われている。芝浦製作所が東京芝浦電気㈱に商号を変えたのは1939年であるため右側はそれ以前、左側はそれ以降に作られたものと判断できる。
芝浦製作所の他に北炭の銘板も入る。
オムロンでおなじみだが立石電機という社名。
上への階段には飾りがつく。八幡製鉄所製のものらしい。
旧火力発電所からダムを望む。火力発電所用に導水するために追設された設備であったが水力発電所としても役割を担い、北炭撤退後は北海道の施設となった。シューパロダム完成のため水門が撤去されダムとしての機能はないように感じられるが、写真手前側では水力発電所の更新工事が行われている。
スタンプ注射ではなく送電線の切られた跡。
上写真の続きで電線が夕張市内から岩見沢・万字方面に延び、総延長は100㎞ほどあったようである。
その逆側にあるシャワールームのようなもの。上に碍子がついており先ほどの電線とつながっていたと考えられる。
当初は使われていたが増築により使われなくなった扉。外側からレンガで塞がれている。
こちらも使われなくなり外側から何かを吹き付けられている場所。
一見なんの変哲もない踏み台であるが、碍子が噛まされてあり感電しても大事にならないよう配慮されている。
踏み台の近くにあったもの。何が操作可/不可なのかいまいちわからない。
いちばん下のフロアは埋められてしまったという。
発電所内を後にしてダムから発電所を見る。3/4は解体されたが存在感は大きい。
次に向かったのはシューパロダム。転回場で時間が厳しいことに気付きUターンして戻ることになった。周辺に人家がないためか鹿の群れやキツネがいた。
ダムの麓の南部青葉町。道路沿いから生活の気配は全く感じられないが、集落内には1984年の夕張保険金殺人事件の首謀者夫婦(1997年に死刑執行)が経営していた炭鉱下請け会社事務所の廃墟が現存する。
長いトンネル(シューパロTN)を抜けた先にある駐車帯から。ダムの底に沈んだ町(鹿島地区)との境界。
右側の水面から少し覗くアーチが旧白銀橋で左奥の橋が現白銀橋。
左側は大夕張鉄道の旭沢橋梁と旧国道452号。沈んでいてもおかしくないが水位が低くなっていたようである。
夕食の時間も近かったので早々に大夕張から引き上げて食後にレースイの湯に4人で向かった。駅の様子は相変わらずである。
YHに戻ってきたら目の前の草原に鹿の群れがいた。