すぬぺ自由帳

気がついたらどこかにいるやつ。

8年前とこの日

あの日から8年が経った。当時何をしていたかというと中学で講習か補習を受けていた記憶がある。どこかで書いたかもしれないが、ふらっと目眩がきたのだろうという感覚で地震だとは思ってもいなかった。実際、大阪は南港のATC,WTC長周期地震動による被害が後から言われるくらいだった。

九州新幹線全通を目玉としたダイヤ改正前日でもあり、近畿エリアでは「雷鳥」のサンダーバード(681,683系)統一による485系、287系投入による183系分割対応(A,C)編成の撤退する日でもあり夕刻の大阪駅は厳戒態勢であった。

その帰りの新快速で異変に気付く。
f:id:pancake_MP:20190311204136j:image東北の地震東海道が止まるまで影響が出るのはおかしくないかと。真相を知らぬまま家に帰った。テレビをつけたらいうまでもなかった。

地元が阪神淡路大震災震度7だった地域に生まれたこともあり、この時期が近づくと小学校の一角にある震災資料室に授業の一環で毎年入ったものだ。深江の阪高3号が横倒しになっていたり、バスが間一髪で転落を免れている画像はメディアでも見かけるが、そこには避難所として運用されている小学校の姿の記録も多数あった記憶がある。この地震津波はなかったため、それを初めて見たのはスマトラ島地震だった記憶がある。3.11以前のことだったため当時は他人事のように映像が繰り返し流されていた。

それから2年、関東の高校へ進んだためこの地震はさらに身近な課題になった。クラスメイトに今も震災関連の活動をしている人もいる。高3の9月に釜石から南三陸方面へ下って現場を肌で感じたことも記憶に新しい。あの当時は陸前高田に嵩上げの土砂運搬のベルトコンベヤーが稼働していた。いつかはこのブログでも触れなければとは思う(旧ブログにエントリはあるはず)。

さらに1年後の夏にWUGと出会う。この震災に関連するコンテンツであることは知っていたため、その年の冬に南三陸へ向かった。黒いレンタカーにダンプから散った砂、荒れ地から飛んできた砂が付着しているのを見るとまだ道半ばなんだなと実感した。それ以来仙台までは時々訪れていたが、近い時期に沿岸部へ行く予定ができた。こう書いていると三陸方面は行っているけども、閖上のほうとか仙台からさほど遠くもないのに全然忘れていたかのように行けていないことを思い出したので日程を見て行かなければと思う。

きょう、14時46分をカーステレオ越しに聞こえる時報と黙祷を合図する声で迎えたのだが、復興といっても再建が終わればよいのか、遠くへ避難した住民が帰ってこられるように整えられればいいのか、以前と変わらぬ生活を取り戻せるまでなのかと阪神間のある街で考えていた。